心の旅路

第1話

  7.行動開始――施設回り


そして、ズーッと高橋先生の話を聴いていると、その時には物凄く心が安らぐんですね。何か自分が、雲の上に乗っかったような気がする訳です。
しかし、その場から一歩外に出たら、もうその安らぎが無くなってしまう訳です。「あれぇ、何で無くなるのかな」と、またそれで疑問を持ったんですね。――これは、「何かやりなさい」という事じゃないのかなと思った訳です。
それで、そういう反省を通して、「私はお蔭様でこうして生活が出来る。しかし、世の中には、もっと私より不幸な人がいるんじゃないだろうか」と、何だかこう、生意気ぶった事を思うようになった訳ですね。
そして、そういう場所を調べ始めた。ところが、中々分からない。調べているうちに、役所で老人の施設があるということを聞きましてね、自分の仕事の合間に時間を造って、施設を回り始めたんですね。
初めに行った老人の施設では、毎月一回、その月の誕生日のご老人達に、お祝いを持って行ったりしていたんですね。
そのうち、高橋先生の話を、老人の施設の皆さんに聴いて貰ったら良いんじゃないかなと思い、施設長にお願いしてみた、
「実は、私は宗教団体とは一切が関係御座いませんが、『人間というものは、斯く有るべきである』という事を話されている方の処に、私は聴きに行っております。
その方の話を是非、お年寄りの皆さんに聴かせてあげたいんですけれども、いけませんでしょうか」
と、もう一所懸命に頼み込んだ訳ですよ。
何回か行ってるうちに、私の話が、そういう巷の宗教団体みたいな話ではないということが分かったんでしょうね。そこの施設長が、
「そういう話なら結構です。是非やってください」
と仰ってくださったんですね。
それで、私が喋る訳にいきませんから、高橋信次先生の話を録音したものを持って行った訳ですね。そしてテープを掛けた。
そうしたら、お年寄り達は、高橋先生の講演テープを掛けると、一所懸命に聴いてくれるんですね。
それを二ヶ月、三ヶ月、四ヶ月と続けていった頃に、「私も少しは、話が出来るんじゃないかな」と思った訳です。で、自分で話してみた訳ですね。
ところが、まぁ、精々一五分か二〇分、そのくらいが精一杯ですね。しかし、話をする事は出来た。出来たと言っても、私の話ではなくて、高橋先生の話を聴いたものを言っている訳ですから、まぁ、高橋先生のようにはいかないけれども、皆さん聴いてくれるようになったんですね。
そういう一つの施設でも、未だに高橋先生の本を読み、『心行』(高橋信次著/宇宙の神理=絶対の理、人間の心を言霊によって表現した心と行いの書)を読み、一所懸命にやっているお年寄りもいらっしゃる訳ですよ。
やはり、縁というものは、そういう施設の中だからいないということは言い切れないですね。
そういう施設に行って、お話をさせて貰ったけれども、実は反対にもっと素晴らしいものを、私は教わっていったんだということに気が付いてきた訳です。
それは、人間が年を取った時の姿・考え――そういうものは、そこに行かなかったら分からなかった訳ですね。そういう人が沢山集まった中は、どのようになっていくのか、知らない間にそれを吸収していった訳です。
そうすると、私が行って話したのではなくて、それを媒体にして、実は私が教わりに行っていた訳ですね。
世の中には、「あれは不必要」だと思うような、いろんなものが沢山ありますよ。
しかし、人間にとって不必要なものは、何一つとして無いのですよ。全部、自分に係わり合いのあるものだから、目の前に出て来る訳です。
そうすると、自分の五官で捉えるものは、全部、私達の心の糧となるものばかりなんですね。
人間の眼というものは、高橋先生の話にもありますように、四千オングストローム(周波数)から七千オングストロームという、大体、虹の色ぐらいの幅だけしか見えないんですね。




続きのページはPDFファイルで作成されています。
PDFファイルを見るためには、アドビリーダーというソフトが必要です。
アドビリーダーは無料で配布されています。

下記ボタンをクリックするとダウンロードができます。


























当サイトの画像及びコンテンツの無断使用を禁じます。