第一話 『人間とは何ぞや』関連の参考講話 短編集
1、ある信仰宗教の最高幹部の悩み
(17ページ『ある新興宗教での出来事』参照)
宗教という一つの場というものは、これは毎日の自分の家庭、それから仕事を通した中――これが宗教の場なんですよ。
やたらに高くて大きな屋根がある処が宗教の場じゃないんですよ。
みんなで集まって、その中でいろんな物を売らされて、もう文句を言いながらやってみたりと、そういう事じゃないんですね。
私達は自由なんですよ。
やはり、正しい生活をするということは、先ず自分の毎日の生活の場が、宗教の場だということです。
宗教というものは、別に拝む事でも何でもないですね。
宗教というものは、自然というもの――大自然というものは全て生命がある。
その生命の教えの中に、道徳あり、秩序あり――それを通して、人間が本当に幸せになる為に、教え示したものが宗教という事なんですね。
「どこどこに集まってどうしなさい、こうしなさい」とか、毎日朝早く道場へ来て掃除をして帰った人は「あの人は信心深い人だ」と、これは信心深いかもしれませんけれども、そういうものは、そこだけの事であって、宗教というものからすれば、一寸御門違いじゃないでしょうか。
大体そういうものを造る自体が、私はおかしいと思いますね。組織・団体みたいな処に入ったら、みんな家を忘れてしまう。そうでしょう――。
一所懸命に組織の中で活動をやっていて、旦那が家に帰ってみたら「家の奴、一体何処に行ったんだ」と文句を言っていたのでは、これじゃ、何にもならないですね。
ところが、そういうのは沢山あるんですよ。それじゃあ、駄目ですね。
そういう処に行って、そこで救われたら、今頃みんな、とうに救われている筈でしょう。救われた人はいないと思いますよ。
人を集めた人、お金を持って来た人――これは偉くなる。しかし、救われないと思いますよ、幾らそんな事をしても――。
気が付いたら、自分の家のお金が無くなって、そういう組織が、でっかくなっていたら、おかしな話ですよ。こんな例は沢山ありますよ。
この前、相談にみえた方がいて、この方は、もう沢山の財産を持っていた方ですね。気が付いたら一銭も無くなっていたそうですよ。
「あなた、どうして財産無くなったの?」
「いや、〇〇教に入っていたんですが、寄付をさせられて、気が付いたら財産がみんな一銭も残らず無くなってしまったんです」
「あなたはね、そんな事は当然ですよ、無くなりますよ」
と言ったんですが、それで今度は、そこの教団の事を悪く言うんですよ。
「あなたね、そうじゃないでしょう、財産を上げたのは誰ですか? あなたが上げたんでしょう。上げたあなたが悪いんじゃないんですか。それじゃあね『返してください』って、教団に言ったらどうですか」
「いや、それが……言ったんですけど、返してくれないんですよ、先生」
――当然ですね。ですから迷ってはいけない。
「あなたね、一銭も無くなったかもしれないけれど、これからやり直ししなさいよ」
と、言ったんですが、そう言う外に無いですね、これは――。
「気が付いたら一銭も無くなったなんて、そんな上げ方、何でするの?」
「もう上げちゃったからしょうがないんですけど、私はもう気が狂いそうですよ」
――気が狂いそうですって……。もう何だか、私が怒られているみたいで「どうしてくれるんですか」と言わんばかりです。(笑)これじゃあ、しょうがない。
こんな相談の人、多いんですよ。ですから、宗教というものの意味の取り違いをしてはいけない。
宗教が悪いんじゃないんですよ。「宗教だ」と言って、看板を掲げている――そういうものに惑わされてはいけないということですね。
自分を救うのは、仏さんでも、神様でもないですね。自分を救うのは自分ですよ。
これは前に、信者が 50万人位の大きな新興宗教の、ナンバーツーの人に会った事があるんですね。「話をして下さい」と言われて行ったんですよ。
私はその人に、本当の宗教というものの在り方を話して、
「出来たらあなたは、この組織をお辞めになった方が良いんじゃないでしょうか」
と、言ったんです。
しかし、そういう組織や団体に入ると、そこを辞めるに辞められない人は沢山いる。この方もそうなんですね。
何故、辞められないんでしょう? ――この方は、そこの本山の中に住んでいるんですね。そしてそこの信者の人達は、その人が最高幹部であり、教祖の次に偉い人で、今の教祖の後を継ぐ人だと思っていますからね。
ここの教祖という人は、病気で寝込んでいるのに、ナンバーツーのこの方に、任せようともしないし、何もかも握って離さない。それで、この方は悩んでいたんですね。
私はその方に、
「しょうがないですねえ、だけどあなたはね、先ず人間として、自分の何処が悪いかを、よく振り返ってみた事がありますか?」
「はあ?」
――これは無いですね、偉いんですから……。それで、
「申し訳無いですけどね、あなたの性格はこうなって、欠点はこういう処ですよ。ですから、こうなって、今こうなったんですよ。あなたは、こういう処を直したら如何ですか」
と、言った訳です。そうしたら、その方が急にワンワン泣き出したんですよ。もう七〇歳位の人ですよ。その方は泣きながら、
「私は教団の最高幹部にいます。人に自分の欠点だとか、そんな事言われたことがありません。あなたに言われたのが初めてです……本当に有り難う御座いました」
と言って、また泣いているんですね。
その方は何か求めていらっしゃったんでしょうねぇ……。
それから二年位してから、その方はその教団の中で亡くなられましたけれども……。
しかし、その方は、それだけ分かっただけでも良かったんじゃないかなと、私は自分なりに思っていますけれどもね。
そういう組織の中にいる人は、何か間違っているものを、何とかしないといけないと思っている人も多いんじゃないでしょうか。
ただ、自分が辞めたら「勧誘した人に、他の人に悪いから」とか「神さんから罰が当たるんじゃないだろうか」とか、みんな思っているんじゃないでしょうか。
「何を言うんだ、罰を当てるなら、当ててみなさいよ」「わたしは、間違っていた、ご免なさい。また、もう一回やり直そう」と言うぐらいのものを持てないでしょうか。
――これが中々出来ないですね。そういう組織みたいなものを造ると、組織というものに、みんな心を縛られてしまう。
家の中をガタガタされたら困るからと、自分でガタガタして大騒ぎしている。
もし、人を不幸にするようなものとか、人の心を動揺させるものは、これは正しいものではないですよ。他の作用ですよ。そんなものに引っ掛かってはいけませんね。
これから先の世の中というものは、流言飛語とか、付和雷同という、人が大騒ぎするようなものが、沢山出て来ると思いますよ。そういうものに自分が係わっては大変ですよ。
私達が正しいものが分かっていれば、そんなものが出て来ても「どうぞ、あなた達でおやりください」と、そのぐらいにならなくてはいけないということですね。
それで、こういう一つの中を、コツコツと毎日正しい心で自分の心を振り返り、
一、ああ、私は喋り過ぎたんじゃないかな
一、見なくてもいいのを見たんじゃないかな
一、聞かなくてもいい事を、自分から聞いて、何だかがっかりしたんじゃないかな
――そういう中に全部あるでしょう。そういう事をしっかり心に入れて、そして一生を終わっていく。一生を終わる。
この終わりというのも、自分の持っている時間、持ち時間をフルに精一杯使って、そして終わる。早く死ぬ人も遅く死ぬ人もいますよ。
そして、こういう話に気が付くという事は、年齢には関係がないんですよ。
そうでしょう――永遠に生き続けているんですから、気が付いた時に、例え90歳であっても、それから自分が終わるまでの何日間・何時間かの間でも、何分かの間でも良い「ああ、わたしは間違っていた、本当はこういう事をしなければいけなかったんだ」と、その時に分かっただけでも良いんですよ。
ところが、中々瞬間的には分からないんですよ。ですから、元気なうちに少しでも、こういう事をやっていなければいけないということです。
1989年11月