第一話 『人間とは何ぞや』関連の参考講話 短編集
4、初めての講演――両親に対しての反省
(32ページ『反省の日々』参照)
高橋先生に初めてお会いして三日位過ぎてから、私にとっては、先ず第一回目の講演に行ったんですね。話を聴いた。
まぁ、最初から分からないですよ。しかし振り返ってみると、先生は、
「人間というものは魂なんですよ。生まれて死ぬ間の事を考えては(拘っては)いけませんよ。それは、ほんの僅かな時間なんですよ」
と、そういう話をされたんですね。
二回、三回、四回と講演を聴いているうちに、まぁ、眠くもなりますね。居眠りもする。ハッと眼を覚ましたら、何だか終わりの頃だったという、そういう事があったりと、今考えたら本当に勿体無い事ですね。そんな事を繰り返していたんですね。
しかし私は、何回も行っている中で、一つ疑問に思ったのは、高橋先生が同じような話を何回もされる訳です。たまには違う話も、と思うんですけれども同じ話ですね。
まあ、そんな事を思っているから居眠りをしてしまう訳ですよ。
実は、そうではなくて、こちらの話の受け取り方があった訳ですね。先生はそこまでは言わないですよね。
「わたしの話は同じだけれども、昨日聴いたのと今日聴いたのは違うんですよ」
と、実は(心の中で)そう言いながら話している訳です。
講演には新しい人も来る。新しい人に、今まで何回も話した難しい事を言っても分からないですね、これは――。ですから同じ話をする。
そうすると、初めての人でも、何回も来た人でも、話の取り方によって、みんな必要な事なんですね。
そして話を黙って聴いていると、実は難しい事は一切仰ってませんね。学校に行かなかった人にも分かるように話している訳ですよ。学校に行っていない私にも分かる話ですね。
そうすると、例えば最高の教育を受けた人がそれを聴いたら「何だそんな話、誰でも分かるような話じゃないか」と、おそらくそういう人もいると思うんですね。
しかしそれは、私は間違いだと思うんですね。話の中を流れているものを取らないとそのようになってしまうんですね。
その頃は、毎晩のように、反省反省……とやっていった訳です。
その中で、両親に対して、自分は今までどういう考えで、どのようにしてきたのかを振り返ったんですね。高橋先生が両親への反省の事を盛んに仰る訳ですよ。
私は両親に対しては、当たり前だと思っていましたから、そういった反省も何にもしてませんよね。さぁ、やっていったら、これは申し訳無い事ばかりなんですね。
私は十人兄弟の三番目ですね。一番、分が悪いんですね。もう、僻んでしまう訳ですよ。自分の着る物にしても履物にしても学校の教材にしても、全部お譲りですよ、お下がり――。新しいのは全然回って来ない訳です。
兄貴は新しいのを買って貰って「おれは一体どうなっちゃってるんだ」と小さい時から、そういうものをズーッと持っていた訳です。
ですからまあ、親父・お袋に対しては、あんまり良い感じは持ってないですね。
そして、親父が失業した事もある。その中で「小遣いくれよ」って言って断られた事があるんですね。
ところが、未だにそういう心がある訳ですよ「あん時、断った!」っていうような想いが……。(笑)中々消えない訳ですよ。
これも捨てきれない……おかしなものですね。
「友達は小遣い貰って、いろんな物を買っている。私も買いたいのに何で断るんだ」ということですね。
しかし、反省の中で、親父なら親父の事を振り返った時に「自分は子供なのに、私だけが、何故して貰えないのか」というものを持ったけれども、例えば、失業している親にしてみれば、僅かなお金を出す事も出来ない訳ですね。これは、どんなに辛かったろうかと思うと、本当に申し訳無い事なんですね。
そういうふうに、親父の事にしても、お袋の事にしても、一つ一つズーッと反省していった訳です。
まあ、両親にしても、母親の方が、男でも女でもみんな何となく「おかあさん」っていうのがある訳ですね。
それで、お袋の事ばっかり反省してるから、親父の方は何処かに行ってしまう訳ですよ。その自分も、今は親父の立場になっているんですね。
私が話をさせてもらっている処で、大学生の人が沢山集まる処があるんですが、
「皆さんね、両親の反省をしなさいよ。当然、お母さんは出て来るけれどもね、お父さんを忘れちゃいけませんよ。お父さんの事も反省もするんですよ」(笑)
って、この頃よく言う訳ですよ。
やはり、男親にしても大変な処をみんな通っているんですね。
そうやって、いろいろ反省していったんです。
1982年9月