心の旅路

 

第一話 『人間とは何ぞや』関連の参考講話 短編集

 

10、記憶の中にある二十数回の転生

(58ページ『千数百年ぶりの再会』参照)

 

私もこうやって、転生をしていながら、最初は「何故こうなるのかな?」と自分の事が不思議で、先生の話を聴いていたんですね。

しかし、不思議という事は有り得ないのですよ。奇跡も有り得ない。

ところが、不思議ですよね。

「不思議と偶然はありませんよ」

と高橋先生は仰ったけれども、自分が眼を瞑って禅定していると、過去に生まれた時代が映画のように全部出て来る。眼を開いたらまた元に戻る。また瞑ったら、またその続きが出て来るし「一体、これはどういう事だろう」と思いましたよ。

それが、唯一ヶ所だけじゃないですね。生まれた時代が何回も出て来る訳ですよ。

そしてその自分が、どの時代に、何処に生まれて、何をしていたか、名前は何というのか、死ぬ時にはどんな事を考えて死んだのか――その時、その時代の事が全部出て来る訳ですよ。「一体、どうなってしまったのだろう?」と思いましたよ。

そして、ズーッと繰り返して観て行くと、まあ、二十数回の生まれ変わりの事が画像のように出て来る訳ですよ。自分も人も喋り、しかもその時代のそこの言葉で出て来る。私達は、こんなに生きたり、死んだりしてるのかなと思うくらい出て来ますよ。

私は、日本はこれで四回目なんです。もう日本はこれが最後ですね。もう生まれて来ませんね。今度は別の処ですね。もうその場所も姿も観えてきますよ。

その前には、中国・南北ベトナム・イスラエル・アンデス、それからインド・ギリシャ・エジプト・インカと、其々何回かずつ出て来ている。まだ他にも沢山出て来ますよ。

しかし、これくらいはまだ少しであって、どれくらい人間はそれを繰り返しているか分からないですよ。

ただ自分が、心を静かにしていったら、これだけ出て来る訳ですよ。そして名前もちゃんと出て来る、何も出鱈目を言ってる訳じゃない、ちゃんとした名前がある。何回やっても同じものが出て来るということは、これは出鱈目じゃないですね。出鱈目だったら一回で終わりですね。

一体、どうなったのかなと思いますけれども、それが当たり前なんですね。

ですから、前に一寸話しましたけれど、自分が過ぎて来た過去を振り返ってみたら、良い格好なんか一つも出て来ないですよ。「何でおれは、こんな酷い格好してるのかな」と思うような格好ばっかりですよ。

僧侶が出て来たと思うと、ボロボロの衣を着ていたり、何か紐を腰に巻きつけているなと観てみたら、何だか藁で結んであったりと、先ず酷いもんですよ。(笑)

たまに鉄砲なんか担いでいたりして「おっ、今度はいいぞ」と思ってみたら、何だか鍬だったりして……。(笑)

しかし、その転生を観てみると、格好は別として、どの時代でも、やっている事は、やっぱり今と変わらないんですね。

今は新幹線や飛行機に乗って来れますけど、昔はテクテク歩いた訳ですからね。それでも、今より以上の事をやっていたんですね。一体どうなってるのかなと思うぐらいですよ。

これは、イエス様が亡くなった後のパウロという人がそうですね。イエス様の教えを伝える為に、あのイスラエルからズーッとイタリアのローマの方まで行った訳でしょう。歩いてですよ。相当な距離ですね。

しかし、そうしてテクテク歩いたもっと前には、歩かずに飛んで行った時代もあったんですよ。ただ、今の我々の地球上にそれを残していないだけなんですね。そのくらい私達の物の中というものは、分散して其々の粒子に変わっていきますから、そういうものは残っていないんですよ。

そして、今度はその粒子が、光・熱・磁力・重力・電気とかそういうものの縁によって、まとまって其々の物質が出来ていくんですよ。当然、人間もその中から漏れる事はないですね。

そうやって、全てのものは、物質と非物質の世界を行ったり来たりしている訳です。

1982年11月



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