第一話 『人間とは何ぞや』関連の参考講話 短編集
13、超満員の地獄界――償いと実行
(70ページ『執着の果て』参照)
これはこの前、私の心の中から守護霊が、
「実は、地獄という次元が違う処がある。実は今、そこが物凄く人で一杯である。
あなたも知っているように、ここは本当は来る処ではない。来る処ではないのに、こちらが一杯になるということは、一体どういう事ですか?一人一人の人間が、そういう事をよーく分かったら、世の中は良くなるんですよ。良くしようと思わなくても良くなる。せめて、あなただけでも、こういう処に行ってはいけませんよ」
――そういう事を言う訳ですよ。私だけという事は、今いる人みんな、全部の事なんですね。
この世の中がおかしくなるのは、ここ(地獄の世界)が多くなるからです。
この世に出て来ると、みんな其々、何かおかしなものをやり始めて、みんなペシャンコになって終わってしまう。
終わった後、みんな明るい処に帰るかと思うと、これが、帰る人がいないんですね。
いや、いないと言っても、ここにおられる皆さんは帰られるでしょうけどね。(笑)
人間というのは、こうやって沢山の人が集まっていろんな話をする。お互いにいろんな話をする。そういう中で喋っている時に、実は自分で喋っていない事があるんですよ。本人は、自分で喋っていると思うけれども、実は違うものの作用で、言葉が出ている事が沢山あるんですよ。知らない間に言っている。
正しいと思って喋っているんだけど、その喋った事が、自分の環境の中で、とんでもないものを造り出すような事があるんですね。
自分は、良かれと思って喋ったのに、とんでもない事になった――とか、そういうものは、実は全部この暗い世界からの作用で出て来るんですよ。
そうすると、私達の毎日というものは、どれだけ大事なのかということが分かりますね。一言、言葉を喋るにしても、やはり自分が安らぐ為ではなくて、相手が安らぐ為の言葉なんですね。
安心立命――こういう言葉がありますね。高橋先生の話というのは、安心というものを得る為のお話ですね。外に無いですよ。
私達がこの世の中にいるのは、生きる中でも、また死んでも、永遠の中で安心を得る為なんですね。
そうすると、安心を得る為には、教えを実行しなければいけないですね。実行していかなかったら、誰が話をしても、今の新興宗教にしても、旧来の宗教にしても、仏教・キリスト教問わず、正しくない話には、誰も寄って来ないですよ。
正しい事を話しているから、人が寄って来るんですね。
しかし、仏の話というのは、お寺とか教会とか、そういう宗教の中の専門の人=専従者、それから我々一般の民衆も、素人も玄人もなく、みんなもう同じ話を聴いて知っていますよ。これ以上話をする事が無いくらいしているんですよ。
しかし行っていないだけなんですね。行っていないだけなんですよ――。
仏の話は、行わなかったら絶対に分からないですね。――これは断言しますよ。
私も実は、先生の話を聴いて「うわあ、素晴らしい話を聴いて良かったな」で終わっていたんですけれども、どうもこれだけじゃおかしんじゃないかなと思って、少しずつやっていったものが何年間か積み重なって、いろんなものを造り出してきた訳ですね。
しかし、高橋先生なら高橋先生という人の教えに自分は帰依した。そしていろんな事を実行して、正しい事も分かって来た、自分で正しい行為もした。したから今までの罪は全部消えた――そんな事は無いですね、これだけは無いんですね。
私も実は、先生の教えに入ったから、もう全部綺麗になったと思った訳ですね。
自分が長い間に造り出した、いろんな罪は、一つ、一つ、自分が償わなかったら無くならないんですよ。別に不思議でも何でもないんです。廻って来たものを、自分が今、それを目の前に置いてどのようにしていくか、どのようにしているか――これが、実は仏の教えなんですね。
本屋へ行ってご覧なさい、もう宗教書が一杯ありますよ。その基は、お釈迦様とかイエス様の事を基にして、それにいろんなものをくっ付けて書いているだけですよ。
ところが、書いた人が、何も行いもせずに、知識だけで書いているのを読んでも何にもならないと私は思いますね。
そうではなくて、私達はそういう一つの教えというものが前から伝わって来ているんですから、それを実際に自分が行っていって初めて、自分自身の心というものを発見出来ると思うんですね。
その為に、実は生まれて来た――と言っても過言ではないということなんですよ。
やはり人間というものは、苦しくなると、いろんなものに頼りたがるんですよ。
「何とかならないかな」「何処か行って聞いてみよう」「観て貰おう」と思う。
しかし、観て貰って、聞いて、それで自分が幸せになったら、これは大変ですね。
幸せというのは、何時も申し上げますように、自分自身が造らなかったら絶対に無いのです。
そうしたら、不幸せというものも、他人が造っているんじゃないですね。全部、自分が造っているんですよ。その辺をよーく知らなければいけないですね。
これは、人が何々教をやった、何々宗をやっている――と、そういうものはいいんですよ。自分と同じ道を歩んでる人、一人としていないですよ。
人を批判するのではなくて、人がやっている事を見て、
一、あのようになったら、どのようになるのだろうか
一、私は、あのようになってはいけないんだ
一、何故、いけないのか、何がいけないのだろうか
――そういう事を参考にする。
やはり人間というものは、ものの取り方ですね。人を批判する前に「あの人は、私に何か教えてくれているんだな」と思ってみたら、この世の中、無駄なものは何一つとして無いですね。
私は高橋先生の話を聴いて一年位経ってから、強いてでも必ずそういうふうに受け取るように、自分に言い聞かせるようになったんですね。
しかし、中々そうはいかない事があるんですね。今こうなんだから、どうにも間尺に合わないと思ってやっている事が沢山あるんですよ。
しかし、自分が厭な目に遭うとか、思いをさせられているということは、これは自分が種を蒔いているんです。――これは確かなんですね。
1982年11月