第一話 『人間とは何ぞや』関連の参考講話 短編集
14、この世を去って――死んだのを気が付かぬ人々
(70ページ『執着の果て』参照)
人の揚げ足を取ったり、噂するのは面白いですよ。しかし、それをやってご覧なさい、他で自分が同じ事をやられていますよ。
自分がいて相手がいる。両方で出来ている訳ですから、自分だけじゃないですね。
言われるから厭なのではなくて、そういう事をすると、自分の心の中が曇ってくる。何にもならないですね。
曇りっぱなしで、そのままこの世を終わってご覧なさい、暗い処へ行ってしまいますよ。それこそ、あの世の暗いジメジメした岩の陰で一人でいるのもいる。
そんな事を言ったら、みんな「嘘だよ」と言うかもしれない。本当にそうしている人もいるんですよ。そういう処へ、たまに行く事があるんですが、
「あなた、そこで何をやっているの?」
「いやあ……分からないんです」
「ここに何年位いるの?」
「さあ……」
そういう人の心の中を観ていったら、もう何十年もいるんですね、何十年もですよ。
これは以前、高橋信次先生と初めて九州に来た時に、佐賀で講演をされたんですね。講演が終わり、質疑応答の時間に、会場のご婦人が、
「亡くなった家の主人は、今何処にいるのか観ていただけないでしょうか」
と尋ねられたんですね。それで、壇上で高橋先生が私に仰った、
「朽木さん、あの方のご主人の意識を入れてください」
「先生、私は出来ませんよ、そんな事はやった事がありませんから――」
「出来ますよ、やってご覧なさいよ」
「先生、イヤですよ」
もう何百人といらっしゃる前で、二人でやってるんですよ。(笑)
「私がいるんだから、大丈夫ですよ。あのご婦人が、その事が分かったら、それで良いでしょう。やってくださいよ」
そこまで言われたのでは、しょうがないですから、心の中を静かにしていったんですね。そして、その亡くなったご主人の意識を、私の心の中に入れた訳です。
そうしたら、どうなったと思います? ――10年前に交通事故で、バーン!とぶつかったまま……。自分の目の前が真っ赤になって、そのまま……。ただ呻き声を出しているだけ、ウゥーッ………。
私はよく分かりますよね、私の体の中ですから――。
私の意識の方は、自分の体の横に出ていて、それを観ている状態ですよ。
「あっ、これは交通事故だ! こんなになるんだな。10年経ってもそのままなんだ」と分かったんですね。
よく大往生で、寝たまま亡くなられる方がおられますけど、周りは「いやあ、大往生でしたね」と思いたいけれども、何時までも、同じ処に寝たままの人もいるんですね。この世から見たら分からないですからね。
まあ、私達は終わる時に、ウゥ……と苦しんで死ぬよりかは、静かに死んだ方がいいですね。
それぐらい人間というものは執着というものがあるんですね。
ですから、亡くなる時まで人を恨んでご覧なさい。それこそ、何十年、何百年も人を恨み、帰れなくなってしまいますよ。
まーだ、偉い人達は、賄賂だなんかやっている訳ですよ。
「ちょっと監獄に行って来ます」
なんてやっていますね。
当然、そういう人がこの世を終わったら地獄界ですね、自分の事を全然振り返らないんですから――。
そこから、何千年も出て来られない人もいる。
これは人の事を言って申し訳無いですが、彼の有名な豊臣秀吉という人でさえ、まだいるんですよ、暗い処に――。アスラー界(阿修羅界=争いだけの世界)にいるんですよ。金の仮面を被って、未だにやっていますよ。暗い処では、金も光らないんですね。もう大分長くおりますよね。そんな事を言ったら怒られますけれどもね。しかし、本当にそうなんですよ。
ヒトラーなんか当然そうですね。もう真っ暗な処ですよ。真っ暗で、何も分からないですね。人々の恨みの念が消えるまで、そこにいなければならない。
それぐらい、人を迷わせたら、迷わせただけの処に行かなくてはならない。
幾らこの世で、やりたい事をやっても、結局はそうなってしまう。
そうすると、その人が明るい処に帰るまで、自分の魂のグループの人(残りの五人)が、この世に出て来られなくなってしまう。これじゃあ、駄目ですね。
まあ、そういう処へ行きたくないから、(心の教えを)やるのではなくて、人間が物の中に今いるということは、自分というものがより一層、人と共存共栄の出来る自分になるということなんですね。そして、調和に向かって今ここにいる訳です。
1986年9月