第一話 『人間とは何ぞや』関連の参考講話 短編集
18、仏=大天使の悟り――毎日の生活の中で心を浄化
(134ページ『悟りは毎日の生活の中に』参照)
仏という人は、この世に出て来て、朝から晩まで四六時中、仏ではいられないんですよ。24時間のうち、話をする5時間なら5時間というものが仏になれる訳です。
我々は5時間どころか、一分間も仏の境地にはなれないんですよ。
そして、この五時間の中で、仏の教えをみんなに話をする訳ですね。
それが終わったら、今度は普通の生活の中で、自分の心を浄化しようと一所懸命やっているんですよ。仏さんでさえ、それだけやっているんですよ。
お釈迦さんでもそうですね。お釈迦さんは悟られるまで36年掛かったんですね。自分の生活を通して、いろんな疑問を持って、城を飛び出して、そして座り込んだ。
六年間座り込んだけれど、さあ、さっぱり分からない。そして、やおら立って、普通の生活に戻った時に、人間というものの悟りを開いたんですね。
お釈迦さんは、禅を組んで悟りを開かれたんじゃないんですよ。
イエス様は大工さんですね。モーゼは奴隷でしたね。やはり其々に、そういう自分の生活の中、苦しみを通して、みんな一所懸命やって、悟られたんですね。
我々は、そういう人の話を聴いて「こういう人がいたんだよ」「こうやったんだよ」「ああそうか、それは尤もだ」と、そのようにならなくてはいけないです。
しかし「尤もだ」と言いながら、一旦その場から外に出たら、やりたい事をやってしまう。――これじゃあ、仏さんが何の為に出て来られたのか分からないですね。
ですから、当然今の世の中がおかしくなっている訳です。そのおかしいのが、実は人間なんですね。しかし、おかしいものもあって良い訳ですよ。
ただ、このおかしい中で、自分を通していろんなものを見て、それをどのようにするかということが大事なんです。
私達は今現在、幸せになる道は、拝む事でも、お経を上げる事でもない。やはり、毎日の生活行為の中にあるんですよ。
それは、どういうことでしょうか? ――お釈迦さんやイエス様の教えの中に全部ありますよ。
イエス様は、集まって「アーメンとやりなさい」とか仰っていませんよ。
「人間というものは、みんな其々に苦しみがある。
私は、神が仰った事を、あなた達に話をしているんですよ。
私の言った事を実行するんですよ。実行しない人は、私の友達ではありませんよ」
――イエス様は、そう仰っていたんですよ。
ところが、自分が還る時間(決められた時間)があまりにも短か過ぎるので、これはこのままでは、自分の話がみんな理解出来ないから、いろんな現象を起こしていった訳ですね。
身体が動かない人を動けるようにしてみたり、亡くなりそうな人を見たら、助けてあげたりしたんですね。しかしそれは、その相手の人とちゃんと縁があって、目の前に出て来ている訳ですよ。別にどうという事じゃないんですね。
まあ、イエス様がそういう力があるから、みんなびっくりしゃっくりしたんですけれどもね。イエス様は、
「これは、あの世があって、あの世からの力でこういう事が出来るんですよ。
私の言う事をちゃんと守って、毎日生活をすれば、そのように苦しまないで済むんですよ」
と話されたんですよ。それが、伝わり伝わって、聖書という分厚い本になり、読んでも、さっぱり分からないようになってしまった訳です。
それで、終いには「讃美歌を歌えば良い」「洗礼を受ければ良い」ということになってしまったんですね。それで、本当に救われるんでしょうか――。
片や「お経を上げればよい」「お寺に行けば救われる」と言いますが、お経を上げたから、お寺に駆け込んだから、果たして救われるでしょうか――。
やはり、自分だということですね。要は「自分を大事にしてください」ということなんです。自分を大事に出来なければ、人をも大事に出来ませんし、人とも手を繋いでいく事が出来ないですね。
そして、人間ばかりではない、万生万物(万象万物の意)全てのものがお互いに協力・協調して、そして世の中を過ぎていかなければいけないですね。
1982年11月