心の旅路

第1話                             2007.4.28更新

 16、己が己自身を裁く――閻魔大王は自分の心の中に

   やはり私達は、ただ勝手に世の中にいるんじゃないんだということですね。

  ところが、本当の事が分からなくなってきて、どうしてもそのようになってくる。

  そして、私達は死んでしまったら、この世の中なんて全然関係が無いんですよ。関係が無い――。関係あると思ったら大間違いですよ。

  皆さん、今日の午前中はもう無いんですよ。午前中の事を振り返っても、何もならないですね。

  自分の心を正す為に振り返る――これは善い事ですけどね。

  しかし、振り返って、過ぎた事に拘ってご覧なさい、おかしくなるから――。

  そのように、私達は生きている中で、もう振り返る事は出来ないんですよ。どんどん……進んで行きますね。前進して行くだけなんですよ。しかも、今というものを土台にして、前進していくんですね。

  そうしたら私達は、振り返るという事は、執着なんです。執着――。念を置く事。

  しかし、この世を終わっても、この物の事を思っている訳です。しがみ付いて離れない。お金でもダイヤでも自分のものだと錯覚を起こして、札勘定をしている人もいる訳ですね。

  あの世に行ってご覧なさい。この肉体から、魂がサーッと出て行ったら、沢山の物を捨ててある処がある。私はそんな処はあるまいと思ったら、本当に捨てる処があるんですよ。もう宝石とか指輪なんていうものは、物凄い数ですよ。ダイヤでもルビーでも何でもある。みんな欲しかったら、あそこに行ってご覧なさい、只で拾えるから――。拾ってきたら、お金持ちになりますよ。(笑)その代わり、拾ったら後が大変ですけどね。(笑)

  そうでしょう――この世でも、お金のある女の人は宝石のいゝのを持っているでしょう。私がお会いした女性で、10本全部の指にザーッと指輪をしている人がいましたよ。(笑)全部、プラチナ・金・ダイヤが入ってる。

「先生、母が病気で、家で寝ているんですけれども、来てみて戴けませんでしょうか。是非心の話をして貰えませんでしょうか」

  と、初めての人だったんですけど、知っている人の紹介で、その人の親戚でしたから、まぁ、断る訳にもいかないし、行った訳です。

  私は、何だか知りませんけど、御殿のような家にばっかり呼ばれて行くんですよ。何だか自分の家がみすぼらしくてしょうがないですね。(笑)

  大きな会社の社長さんの家です。枕元に大きな金庫が置いてあってそこに寝ておられた。

「おばあさん、どうですか……」

  と、いろんな話をして、ふとお婆さんの指を見たらザーッとしてる訳ですよ。

「あっ、おばあちゃん、その指輪、全部おばあちゃんの?」

「はい、私のです。枕元の金庫にも沢山入っております」

  ――もうこれはお終い。(笑)人にやりたくないそうですよ。

「おばあちゃんね、それ捨てなさいよ、わたし貰って帰りますから」って言ったら、怒られちゃうよね。(笑)怖いですねぇ……。これじゃあ、心の話は通じないですね。

  人間は前進して行く訳ですから、この物質の世から、物質でない世界に行かなくてはならない。

  何処にあるんですか? ――我々がこの世を終わったら、高橋先生の話にあるように修養所という処があるんですね。終わった人は、みんなその修養所に行く訳ですよ。そこで、この物の中(この世)での、自分が今までの思った事・行った事を反省をする訳ですよ。

  そして、その反省によって、「あっ、私はこんな事をしていた。これをそのまんまにしてきてしまった」と気が付く。――そのままにしてきたということは、これをもう一度やり直さなくてはいけない訳なんですね。そして、行く処が地獄なんですね。

  まぁ、地獄と言ったら、閻魔さんがいてね、

「おまえ、嘘を言ったか」

「いやぁ、嘘は言った事ありません」

「舌出してみろ」

「おまえ、嘘、言ったじゃないか!」

  ペンチで、ヤッ!と舌を抜く。――あんなものは無いんですよ。

  あの閻魔大王は、自分の心の中にある訳ですよ。自分の心が自分を裁く。

  ところが、この修養所まで行ける人は良い訳ですよ。まぁ修養所どころじゃない、自分の持っている物を捨てるのに精一杯なんですね。

  私はそこに行って観てきた中で、一番大きな物は、お寺の釣鐘――。あれは何処から持って来たのか……まさか弁慶じゃないですよね。(笑)やっぱり、お坊さんが大事な釣鐘を置いていきたくなかったんですかねぇ……。

  で、途中までは持って来たんだけども、弁慶のような具合にはいかなくて、置いていったんじゃないでしょうか。いやまぁ、でっかいのをよく持って来ましたよね。

  そのように、捨てる処が、ちゃんとある訳です。持って行こうとすると、重いから、そこでみんな捨てる訳です。

  そして今度は、物だけでは無い。この世にみんな想いを置いていく訳ですよ。

  一、あゝ……恋しい人、別れたくない人もいるかもしれない。

  一、これは、わたしの物だけど、あれは誰が持っていくかな。

  一、わたしは財産残したけど、遺書に名前を書いた人は受け取るかな。

  一、遺書も何にも書いてこなかったんだけども、あれは誰が持ってくのかな。

  ――そう思って死んだら、その物にちゃんと掴まっている訳ですよ、想いが……。

  先程の一〇本の指輪じゃないですけど、死んでそういう物が残ると、身内の人が集まってきて、「これ、私が貰っていく」、「いや、私が貰っていく」と、もう喧嘩ですよ、ワーワー……。そんな物、指にはめてご覧なさい、病気になるから――。

  そういう財産の事で争いが始まった時には、「あっ、これは死んだ人がやってるぞ」と思っていゝですよ。よーく参考に知っておいた方がいいですよ。

  亡くなった人が、本当に執着から離れたら、財産争いなんて一切起こらない。

  財産が、どんなに多くても、どんなに少なくても、争いはやってはいけませんよ。やはり欲望を持ったらきりがないんですよ。

  告別式の時に喧嘩が始まる事があるでしょう。告別式の時に喧嘩なんかしてる時には、あれは、お化けが横で、「やれっ、やれっ」て言ってるんですよ。

  それから、人が亡くなった時に、告別式でワァワァ泣くというのも本当はおかしいんですね。――本当はですよ。だけど人間、感情がありますからね、これは泣く事は当然ありますよね。

「長い間、ご苦労様で御座いました、お世話になりました。また、縁があったらお会いしましょう」と、暫くの間、サヨウナラ……。本当は、これがお別れなんですよ。

  私達の人生というものは、魂として、会う事と、別れる事の二つしかない訳です。

  本当は、悲しい別れをしてはいけないということです。悲しいという事は、やるべき事をちゃんとやらないで帰ったから、悲しい事になる訳ですね。悲しんではいけない。

  しかしそれには、自分の心というものをちゃんとしておかないと、どうしてもそうなってしまいますね。

 

   ――次回に続く

  次回『17、亡き父母の心によせて』の更新予定は、5月の第1週です。

  お楽しみに。

 



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