私のお袋は、昭和四八年に亡くなったんですね。親父はお袋より早く、昭和三六年に亡くなっているんですね。
家の親父というのは、農家の出で、早く父親に死なれ、母親は他の人と一緒になった為、祖父に育てられた。物凄い厳しい中にいたんですね。
そういう厳しい中を通りながら、中々幸せになれずに、学校の先生として一生を終わってしまった。
私も、もっと何かしてやれば良かったと思いますけれども、親孝行したい時は、親は無しですね。
家の親父が亡くなる前に、お袋が婦人会の付き合いで、R会系列のS会という新興宗教に行っていたんですね。これは、「南無妙法蓮華経」を唱える会ですね。
家は元々、真言宗なんです。家の親父というのは、物凄く頑固で、一切そういうものを受け付けない人だったんですよ。
ですから、お袋は隠れて新興宗教に行っていたんですよ。
ところが、親父が亡くなった。焼き場でお骨にして、家の座敷に置いた。そこに台を置いて、お骨を乗せ、前に蝋燭と線香を置いた。そして位牌を置いた。
ところがその時、お袋が、南無妙法蓮華経をやっている処から、親父の戒名を貰って来た。お袋は構わずに真言宗の位牌と二つ並べたんですね。
そして、座敷を締め切って、みんな別の部屋にいたんですよ。
ところが、私は何かしら気になったので、座敷に行ってみたんですね。開けてみたら、位牌が燃えているんですよ。蝋燭も線香も離れた処にあるのに、位牌だけが燃えている。しかも、その新興宗教から貰ってきた位牌だけが燃えている。飾り物の布や他の物もあるのに、全然燃えずに、それだけが燃えている……吃驚しましたね。
私はそれを見て、「あっ、親父怒っているぞ」と、そう思った訳ですよ。不思議な事もあるもんですね。
だけど、これは不思議じゃないですね、本当の事が分かってきたら――。
そして、今度はお袋が亡くなった訳ですけど、四七年の十月に、お袋が外出先から帰って来て、
「どうも身体がおかしいから、床をとって欲しい」
と言うもんですから、床を伸べたんです。そして、寝たらそのままになってしまって、もう起き上がれなくなってしまったんですね。
私も丁度、高橋先生の処に行って、いろんな話を聴いたり、話をしたりするようになってからですけれど、十一月になった或る日、高橋先生がわざ電話を掛けてきてくださったんですね。「こうしなさい、あゝしなさい」といろんな事を教えてくださったんですよ。お袋は肝硬変で亡くなった訳ですけれども、先生が、
「お腹にマーガリンを塗ってご覧なさい。そうすると、物凄く楽になりますよ」
と、仰ったんですね。これは病気が良くなるということではなくて、本当に身体が楽になるんですね。腹水でお腹が張っていたのが楽になったんですね。
皆さんも熱が出た時には、マーガリン塗ってご覧なさい、気持ち良いですから――。
そういう中で、私もお袋の身体の悪い処に手を当てて(手を近付けて)、そしていろんな事を念じながら手当てを毎日していったんです。
その前に守護霊から、お袋の病気の事や、もう終わりが近い事も知らされていたんですね。そこで、人間の心の在り方をお袋に話そうと思って、
「おばあちゃんね、あらゆる執着から離れてご覧なさいよ」
「おまえは、わたしに死ねっていう事なのかい」
――とんだ事を口にしてしまって、「しまった」と思ったんですが、
「いや、そうじゃなくて、執着から離れるという事は、心に安らぎを持つ事なんだよ。そうしたら、病気も良くなってくるんだよ」
――まぁ、よくその言葉が出たものだと思いましたけどね。
そして、高橋信次先生の講演テープをズーッと聴かせた訳ですね。
それから何日か経った或る日、お袋が、
「おまえが、いつか言ってた、執着から離れるという事はよく分かる。しかしねぇ、いざとなると中々簡単にはいかないものだよ」
と、そう言ったんですね。それを聴いて、私は申し訳無い事を言ってしまったという想いと、話しておいて良かったという想いと両方でしたけれどもね。
ところが或る日、手当てをしながら光を入れている私の姿をお袋が見ていて、
「わたしの傍で、こうやって、手を当てているのは誰なの?」
って聞くんですね。何だかおかしな事を聞くから、愈々これは脳軟化症じゃないかと思った訳ですよ。(笑)
「僕ですよ」
「いや、そうじゃなくて……おまえがいるのは分かっているよ。しかし、もう一人そこにいるんだよ」
「もう一人いるって……僕だよ」
と、そう言っても承知しないんですよ。
「どんな人、いるの?」
「黒い衣を着た背の高いお坊さんが来て、お経を上げて行くのよ」
――実は、私の守護霊だった訳ですよ。その僧侶が出て来たら、とにかくお経が、とうとうと流れて来る。そして終わったらスーッと上の方に昇っていくんですね。それがお袋に観えたんですね。
「はゝぁ、これは、いろんな事が分かるようになったんじゃないかな」と思った訳ですよ。――その通りだったんですね。
見舞いに来る人に、変なものが憑いていたら分かる訳ですよ、
「あの人、見舞いに来てくれたけど、後ろにこんなのがいたわよ」
とか言うようになったんですよ。しかし、寝たきりですね。
そうしているうちに、十二月になった。仕事もあるんですけど、私はもう仕事はどうなってもいゝから、ここで一所懸命やらなくてはと、帳面付けの仕事をしながら、家で朝から晩まで傍にいて看病していたんです。
そして今度は、入院する事になった。国立病院なんですけれども、完全看護じゃないものですから家政婦さんを頼んだ。
ところが、勤務がきついので、何人頼んでも僅かで直ぐ断られる。もうしょうがないので、家の女房に行って貰うしかない。女房も、「わたし、やるわ」とやってくれたんですが、一人で朝から四六時中いる訳にもいかないんで、私も行って看るようになったんです。
ところが病院としては、女の病棟だから、付き添いは女の人は良いけど、男は駄目だと言うんですよ。困ったんですねぇ。
しかし、家政婦さんは頼んでも来ないし、しょうがないから、「まぁいゝや、知らん顔してやっていよっと」と、やっていた訳です。そうしたら、病院で何にも言わなくなったんですよ。(笑)
付き添いする中で、お袋の下の物を洗ったりさせて貰った訳ですけれども、「これは、自分のお袋だからやるけど、他人だったら出来るかなぁ」とか考えてみたり、「お袋のが出来たんだから他の人のだって出来る」と思ってやってたんですね。
ところが人間というのは、やっている時はそう思うけれども、一寸時間が経ってから何かあると、「なんだ、イヤだ」って思ってしまったりするんですね。人間って勝手なんですよ。そういういろんな事が自分で分かったりしていったんですね。
お袋は、年が明けた一月十四日に亡くなったんですが、亡くなる二週間前頃に、家の娘が年末年始の休みを利用して旅行したんですね。
その時に私は娘に、
「おばあちゃんが死にそうなんだからダメだ」
と言ったんですけど、
「もうお金も払ってあるし、友達五人と約束しているから、行かせて欲しい」
と言うもんですから、
「早く帰って来いよ」
と、実は旅行にやった訳です。福島県の会津若松――白虎隊で有名な、あそこに行った訳です。
ところが、案の定、お袋は聞いてきたんですね、
「どうしたのあの娘、いないじゃないの。何処に行ったの?」
と言うから、いや実はこういう訳だと説明した。そうしたらその次の日、
「わたし、あの娘の処に行って来たよ」
って言うんですね、
「えーっ、なに、行って来たって、どういう事なの?」
「いや、あの娘、雪が沢山降る街の中でね、友達五人で、あゝでもないこうでもないってあんまりワーワーやっているからね、わたし、『早く帰りなさいよ』って言ってきたのよ」
と、その時間と場所も全部言うんですよ。
「そんな事、あるのかなぁ」と思っていたんですけど、そのうち娘が帰ってきた、
「おまえ、〇日の〇時頃、ここでこんな事してたのか」
って聞いたら、ちゃんとお袋が言ったその通りなんですよ。
そうすると、「お袋、これは本当に行ったな」っていうことですね。行かなかったら分からないですよ。
福島はお袋の生まれ故郷でもあるし、最後に観に行ったのかもしれませんね。
そうしたら今度は、もう駄目になる二週間ぐらい前に、あの世の事を話し始めたんですねあの世の事――。お袋があの世の事なんか分かる筈が無い……と、そうじゃないんですね。
「おまえね、今日はね、こんな処に行ったよ。物凄く明るい処でね、綺麗な湖があって、紫の花がパーっと咲いていて、こういう家があって……」
と、いろんな事を話すんですよ。「まぁ、今日だけで終わるだろう。もう終わりが近いから、そうなんだろう」と思っていた訳です。
しかし、次の日も同じ事を言うんですよ、
「今日行ったら、白鳥が飛んでいたわ」
と、いろんな事を言う訳です。三日目になった。三日目もまた言う訳ですよ。
ところが、よーく聴いてみると、私が以前、連れて行かれた処によく似ているんですね。
そうすると、愈々これはと思い自分の心の中をズーッと追求していくと……出て来た訳ですね。「はゝぁ……ここが帰る処なんだな」と、あの世の自分が帰る処が観えてきたんですね。 人は、もう自分が段々駄目になってきて、おさらばする前になると、そういう事が分かるんじゃないかと思うんですね。
そういうふうに、もういろんな事を言うようになったんですよ。しかし、身体が弱っていく中で、食べ物も食べられなくなって、
「あゝ、あれ食べたいなぁ、ご飯も食べてみたいなぁ……」
というものはあるんですね。そういう事も話してくれましたね。
そういう事も話をしながら、あの世の事も話する訳ですよ。あの世とこの世を行ったり来たり、行ったり来たりしている訳ですね。
そういう中で、お袋といろんな事を話していた時に、今、目の前にいる、もう段々段々時間が終わりそうな母親が、今から一五〇〇年位前(イスラエルで)、やはり私の母親だったという事が、心の中から出てきた訳ですよ。縁ですねぇ、これも……。
私はそれが分かった時に、本当に申し訳無いと思ったんですね。その時には強烈に思った訳ですよ。何故かと言いますと、親不孝だったんですね……。
「おばあちゃん、ご免ね。私はね、子供なんだから本当は親孝行するのは当然なんだけど、私は振り返ってみたら、おばあちゃん、本当に親不孝だったね、ご免なさい」
――初めて謝った訳ですよ。その時の私は、もう我慢が出来なかったんですが、今この世を終わりそうな人の前で泣く訳にいかない。そして、話をしてから席を外して病室の外に出て泣いちゃった訳ですよ。もう手放しで、鼻がグシャグシャになったのも分からないくらい泣いたんですね。
そして亡くなる少し前、身内の者が来て病院の控え室で、お袋の事やこれからの事を相談して、病室に戻った。そうしたらお袋が、
「今、おまえ達が相談していた事は、何も心配しなくてもいゝからね」
「えっ、聴いてたの?」
「みんなと一緒にいたから分かるんだよ」
――これは、ギクッですね。
そして愈々、亡くなる前の日、一月十三日に私が病室に行ったら、お袋がもういないんですよ。ベッドの上に寝ているけど、(魂が)いないんですよ。
「あっ、これはお袋……もう還ったな」と分かったんですね。
看護婦さんが来ていたんですけど、これはもう駄目だと医者を呼んできた。医者が足を立てたり、いろんな事やってる訳です。足をこうやって立てても、バタンと倒れてしまう。
「先生そんな事やっても、もういないんですからダメですよ」
と言ったら、変な顔をしていましたけどね。
「いや、息をしてるから大丈夫ですよ」
と、いろいろやっている訳です。もうお袋はいないから、もう駄目ですね。次の日、
「来てください。お宅のお母さん、危篤です」
と連絡があった。もうお袋は完全にいない訳ですよ。しかし心臓は動いている。まだ身体は動いている訳です。
そして親戚が集まって来た。そしてみんなで、眼を動かしたとか、口を動かしたとか言っている訳ですよ。――これは最後になると身体が動きますね。それは段々身体が萎縮していくから動く訳ですよ。
しかし、もう魂は、前の日から全然いない訳ですね。
そういう亡くなり方でしたね、お袋は……。
そういうものを見ていると、実は、私も自分(魂の自分)で、自分(肉体の自分)の姿を何遍も観たりしている。
そうするとこれは、私が本当に追求し追求し追求してきて、高橋信次先生に出会った。そして、いろんなものを教わった、いろんなものを見せて貰った、自分もその中で体験していった。 自分だけかなと思ってたけれども、自分のお袋もそうなった。――これは、この肉体というものは、本当に自分じゃないんだなと、そう思うようになった訳です。
――次回に続く