心の旅路

 

第二話 『心と肉体と経済と』関連の参考講話 短編集

 

7、心をより明るく――精神的なもの

(190ページ『過保護とノイローゼ』参照)

 

以前、ノイローゼの人が相談に来たんですけど、これは子供がノイローゼになって、親が聞きにみえたんですね。その人の話を聴いていてね、私こう思ったんですよ。

ノイローゼというものは、まあ、早く言ったら、おかしなのが来て、憑依していろいろな事をやる……と、そうじゃないと思うんですね。

人間というのは、自分自身に何か一つ、圧迫を与えるようなものをみんな持っていると思うんですよ。「ああすればよかった」「こうすればよかった」「こうしなきゃいけない」「ああしなきゃいけない」と、そういう事を考える。

こういう想いの強烈な人が、ノイローゼになっていくと思うんですよ。

ですからそういう人に、順々に話をしていったら分かると思うんですね。

しかしこれが、中々分からないですね。

いや、お医者さんはどういうふうに言われるかは分かりませんよ。これは身体の方ではなく、心の問題ですからね。

私はノイローゼの人の言う事を聴いていて、ズーッと自分の心、私自身の心の中をみていったらそうなるんですよ。「あっ、これだな」と思いましたよ。

そして自分の事を、動きが取れないように、取れないようにしているから、今度は人のせいになってしまう。「あいつがどうだ、こうだ」になるんじゃないでしょうか。――そうすると、これは全部自分が造っているんですね。

ところが、今度はこういう想いが強くなっていくと、本当に精神的におかしくなっていきますね。

今度は、本当に自分の事以外、考えられないようになってしまう訳です。全てが被害者意識になってしまう。これはまあ、ノイローゼと似たようなところもありますけどね、これは別のものなんですよ。そして全部、人のせいにする。

で、思い通りにならないと、感情が高ぶってくるんですね。しかし、それを抑える事が出来るうちは、別にどうという事はないんですよ。

その感情を抑えきれなくなった時に、バーン!と爆発してしまって、おかしくなるんですよ。こうなったら大変ですね。

そうすると、辛抱するとか、我慢する――これが出来ないんですね。

こういう人、女の人に特に多いですよ。「我慢出来ない」っていう人――。

そういう時に、いろんな話が出来たら良いですけどもね、みんな話しないで逃げちゃう訳ですよ。

「自分は少しくらいやられてもいいから話をしよう」という人がいたら良いですけど、終いに、傍にも寄り付けなくなったら大変ですね。

そうなってしまうと、人が変わってしまう訳ですよ。本人でなくなる。

人が全然違うんですから、こんな物(演台)ね、片手でヒョイと持ち上げちゃいますよ。箪笥なんかもヒョッと背負っちゃう。小柄な女の人でも、それこそエッ!と吃驚するような事やる。これは、自分では無くなってしまう、本人では無くなるんですね。

ですから、そうならないように、気を付けなくてはいけないですね。

やはりそれは、環境・境遇にありますよね。これは親がいるから、子供がいる訳ですけれども、育て方にもよりますね。

「おまえが悪い」って親は言う。――子供は悪くないですね。子供は親が教育するんじゃないんですか。学校の先生はそこまではやれませんよ。やはり親なんですよ。

そうしたらどうするんですか? ――そうでしょう、みんなそこまでは行くんです。

もう、そういうふうになってしまって、どうしようもなくなったら、一体どうしたら良いんでしょう? ――そうしたら、実は、私達は輪廻を繰り返している訳ですね。今、そうなった人が、一旦あの世に帰って、今度この世に出て来た時に、同じようにならないようにしなければいけないですね。

それには、気が付いた人が、自分の心を、より明るい心にして終わっていく。

そして、心の中でその子供に「しっかりするんですよ。私の育て方が悪かったかも知れないけれども、本当にご免なさい。しかしね、今度生まれた時に縁があったら、私は今までのようではなくて、もっと少しでもあなたの役に立つ人間になりますからね」と、この心が、そういう人を救う訳ですよ。

「そんな永いこと、何百年も何千年も待っていられない」と思うかもしれない。

しかし私の場合でも、自分の肉体から離れて行って(魂が次元の違う処に行く)、またこっちに帰って来たら、もうここにいる訳でしょう。長い時間じゃないんですよ。今なんです。

今という中で、自分が行ってきた事を振り返って、心をより成長し、知っている人でそういう人がいたら、その人の保護者の人に、

「こうじゃないんでしょうか、私もこういう経験をしてきて、今ここにいるんですよ」と、話が出来るようになったら、素晴らしい人になる。

そしてその辺りが、それこそ、あの世にグルッと回ってこなくても変わってしまう。

何故かと言いますと、暗いものが明るくなるからですよ。これが、お互いに協力する、切磋琢磨するということですね。

「私は知らないわ」って言ったらお終い――。

しかし、物の中では中々そうはいかないんですよ。心の中で、自分にしっかり言い聞かせて、一日一つでも良いですから、人の為になる事をやろう、人の為になる事を話をしよう――これは出来ますよね。意識しても良いですから、最初にやってご覧なさい。そうしたら、自然と出来るようになるんですよ。

最初から、何も無かったら出来ませんよ。私も「どんな事かな、こんな事かな?」とやりましたけれどもね、最初は意識してますよね。しかし、やっているうちに全然考えなくなってしまうんですよ。そのやる事が、大事なんですよ。

「自分はいろんなものを醸し出したかも知れない。しかし今の自分は、人にプラスになる為に存在しているのだ」ということを分からなければ駄目ですよ。

いいですか、これが私達なんですよ、人間なんですよ。

自分の事ばっかりで、お金を出して教育を受けて偉くなったからどうだこうだと、そんなものは関係ないですよ。人間として、如何に生きるかということが大事だということです。

そうしたら、おかしなものは目の前に出てこなくなると思うんですよ。それは何時になるか分からないですよ。分からないけれど、いいじゃないのそんなものは――。

自分が変わるということは、これ程素晴らしい事はないと思いますよ。

それを「今、何とかなりたい」「今、取り戻したい」と思うから、不可能な事を可能にしようなんて思う訳です。――こんなものはありませんよ。それをよーく分からなければいけませんよ。

それによって人間というものは、お互いに幸せになって、そしてまた縁があったら「あっ、暫くでした。この前はすみませんでした」とか「この前は良かったですね」と、話が出来るようになったら良いんじゃないでしょうか。

そんな事、出来るんですか? ――出来ますね。その時、縁がある人が来たら、分かる人は分かりますよ。

「いやあ先生、あの時はどうでしたね、こうでしたね」

と言う人、実際にいますよ。

1997年10月



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