第三話 『日本人』関連の参考講話 短編集
3、十字架の上で――苦悩を乗り越え話を始める
(257ページ『知られざる仏の姿』参照)
イエス様の場合は、生まれて来てほんの僅かしか、みんなの前で話が出来なかったんですね。自分の持ち時間(決められた時間)が短かったのですよ。
イエス様は、20歳の頃からズーッとインドとか、チベット方面に行ったんです。これは導かれて行った訳ですね。
そして、自分の心を修行して、グルーッと歩いて回られた。
今でもチベットの、或る寺院に残っていると思いますよ「青い眼をした、こういう人が来た」という記録が――。
その修行する中で、魔王が出て来たり、いろんな体験をして、そしてそれを乗り越えて、帰って来られたんですね。
それからみんなの前で話を始めたのです。
イエス様は実際に、死んだ人を生き返らせたり、足が悪くて歩けない人を治したり、身体の悪い人を治したりと、本当にそういう事をしたんですね。
ところが、ただ病気だけを治して貰おうとして来た人には、絶対やらなかったんですよ。
「私の話を信じ、神を信じる人は来なさい」
と、そう仰ったんですね。そして奇跡を起こしていったのです。
その奇跡を見て、みんなが、何でもかんでも治して貰おうと、こうなってきたんですよ。これじゃ駄目ですね。
イエス様の仰った本当の意味が、みんな分からなかったんですね。
皆さんもご存知のように、イエス様は十字架に磔になりましたね。
しかし、イエス様は自分が磔になって終わる事は、前から知っていらしたんですね。
磔になった時に、イエス様が「何故、私は殺されるのですか?」と言ったそうですよ。――冗談じゃありませんよ。そんな事は一切仰ってませんよ。
その時、イエス様は、
「わたしはこれで終わりますけれども、神よ、わたしに対してこのような事をする人をはじめ、多くの悪い心の人達をお許しください」
と、そう仰ったんですよ。
そして、自分が刺された時には、自分の肉体から離れた処で、自分が刺される姿を観ておられたんですよ……。
これは可能ですね。自分の姿は観えますよ。私でさえ、自分の体を離れた処から観る事が出来ますよ。自分が禅定している姿でも観えるんですから、況してやイエス様のような仏さんだったら、当然観えますよ。
ところが、みんな何も分からないで、その姿を見ていたんですね。「ああ……かわいそうに……」と見ていたんです。
「イエス様は、きっとこんな事を言われたんじゃないか、あんな事を言われたんじゃないか」になった訳です。そういうものが、今の聖書として残っているんですね。
今のキリスト教にしても、説いたイエス様は、ちゃんと話をしている訳ですからね、後の人が自分達の考えで、いろんなものを造りあげてしまった訳ですよ。
アーメンとやったから、洗礼を受けたからと、それで幸せになると言ったら、とんでもない話です。況してや、懺悔をしたからといって、それで許されたら大変ですよ。
懺悔をした後に、実際にそれを修正し、実行するだけの努力がなかったら、イエス様は決して許しませんよ。
人間というものは、直ぐ、易々と簡単な事を考えてしまうんです。
そして、イエス様が十字架に磔になっている像の前で、
「イエス様、何とかなりませんか。私の願いを聴いてください」
とやる訳でしょう。こんな失礼な事は、私はないと思いますね。
もっと、自分自身の心の中にある 〝真我〟 というもの――その真我が、神と繋がっている自分だという事を知らなければいけないということですね。